ご主人様を乗せた車が、冷たいアスファルトの上を滑り、角を曲がって見えなくなるまで、私はコートの襟を握りしめたまま、その場に立ち尽くしていた。
夜明け前の空気は、刃物のように肌を刺す。
コートの下は、ストッキングもパンティーも失った、あまりにも無防備な素肌。
さっきまで彼の道具で汚され、恥ずかしい音を立てていた身体の奥が、まだ彼の残した熱でじんじんと疼いている。
(辛かった……恥ずかしかった……寒かった……)
それなのに、心の奥底には、奇妙なほどの充足感と、彼が去ってしまったことへの、胸を掻きむしるような寂しさだけが残っている。
あれほどの屈辱と苦痛を与えられ、糞尿と精液にまみれたというのに。
今、私の胸を満たしているのは、絶望や後悔ではなかった。
なぜ、この胸は「至上の幸福」などと感じてしまうのか。
彼に「最高だ」と褒められたことへの甘い陶酔と、もっとずっと一緒にいたかったという、子供のような切ない渇望だけだ。
(……私は、いつからこんな風になってしまったんだろう)
冷え切った団地の部屋に戻り、鍵をかける。
シャワーを浴びる気力もなく、コートを脱ぎ捨ててベッドに倒れ込むと、疲労困憊のはずなのに、頭だけが妙に冴えていた。
(どうして、あんな酷いことをされても、嫌いになれないんだろう……)
(どうして、あの人の前でだけ、私はこんなにも……)
目を閉じると、今日の出来事よりも鮮明に、あの日の光景が蘇ってくる。
今、私が「ご主人様」と慕う、あの人のことだ。
彼がまだ、私の「ご主人様」ではなかった頃。
(……あの人も、最初から、こんな人じゃなかった……)
脳裏をよぎるのは、今日の冷酷な支配者とは似ても似つかぬ、穏やかな笑顔。
私がまだ、こんな風に歪んだ快感も、身体の奥で疼くこの寂しさも知らなかった頃。
彼はただ、ファミレスで出会った、優しくて、少し寂しそうな目をした、年上の紳士だった。
私がただの「中山優子」で、彼が「須藤さん」という、年の離れた紳士だった頃。
そう、すべては、あの夜から始まったのだ。
私が、孤独な25歳の女でしかなかった、あの夜から……
ご主人様と慕う、その男性と出会ったのは、春先のことだった。
夜8時30分。
仕事帰りに、職場近くのファミリーレストランで一人、夕食をとるのが私、中山優子の日課だった。
自動車教習所の事務員という仕事は、好きで選んだ。
けれど、就職したばかりの職場で、まだ私は馴染めずにいた。
だから、夕食の相手はいつも、窓ガラスに映る、疲れ切った自分の顔だけ。
あの日も、そうだった。
注文を済ませ、ドリンクバーへ向かうと、隣でコーヒーを淹れている男性がいた。
その時だった。
「一人で食べに来ているのかい?」
不意に、穏やかな声がかけられた。
(え……?私?)
視線を上げると、歳の頃は父親ほどにも見える、ダンディな男性が立っていた。
驚きのあまり、私は咄嗟に「ええ、あっ、はい」と、蚊の鳴くような返事をするのが精一杯だった。
(……びっくりした。人違いかな……)
私はそそくさとその場を離れ、自分の席へと逃げ帰った。
窓の外を流れる車のテールランプをぼんやりと眺め、食事を終える。
再びドリンクバーへ向かうと、また、あの男性がいた。
彼は、私に気づくと、少し困ったように笑った。
「驚かせてしまったようだね、ごめん、ごめん。……実は、私も一人なんだ。話し相手がいないと、食事もなんだかつまらなくてね。迷惑でなければ、一緒に……良いかな?」
(何を言っているんだろう……?どうしよう。知らない人だし、こんな年上の人……)
だが、彼の物腰はあまりに柔らかく、その瞳には、下心とは違う、どこか寂しげな色が浮かんでいるように見えた。
いつもの私なら、確実に断っていたはずだ。
人見知りで、見知らぬ人、特に男性と話すのは苦手だった。
なのに、その時。
「……じゃぁ、私が、そちらの席に移動しましょうか?」
なぜ、そんな言葉が出たのか。
自分でも分からない。
「いや、私が君の席へ移動するよ。そっちの方が、窓から外の景色が見えるしね」
彼はそう言うと、スマートな仕草で荷物とドリンクを運び、私のテーブルの対面に、当たり前のように腰を下ろした。
「須藤と言います。君は?」
「あ……中山、優子です」
「中山さんか。……この近くで働いているのかい?」
初めは、ぎこちない世間話だった。
「仕事は楽しい?」と聞かれ、教習所の話をすると、彼は「人を導く、良い仕事だ」と真剣な顔で頷いた。
彼が会社を経営していること 、この辺りには仕事で時々来ること。
私の他愛もない仕事の愚痴。
彼の声は、低く、落ち着いていて、聞いているだけで、ささくれだった心が鎮まっていくようだった。
気づけば、時計の針は午後11時を回っていた。
「おっと……もうこんな時間か。遅くまで引き留めてすまなかったね。明日も仕事なんだろう?そろそろ、お帰りなさい」
(……あ。もう、終わり……?なんだか、すごく、楽しかった……)
もっと話をしていたい。
その衝動を、翌日の仕事のことを考えて無理やり押し込める。
(あ……連絡先、聞くの忘れちゃった……)
でも、不思議と焦りはなかった。
(……あの人なら、また会えそうな気がする……)
車を運転しながら、ぼんやりと彼のことを反芻する。
数日後、その予感は的中した。
同じファミレス、同じ孤独な夕食。
いつもの席でオムライスを待っていると、背後から、あの声がした。
「中山さん……だよね?久しぶり。覚えているかな、須藤です。……ここ、座ってもいいかい?」
振り返ると、あの時の、優しい笑顔があった。
「あっ!は、はい!覚えてます!どうぞ……!」
(……嬉しい。また、会えた……!)
自分でも驚くほど、心が弾んでいた。
今日は、必ず電話番号を聞かなくっちゃ。
淡い期待が、胸の中で膨らんでいく。
前回よりもずっとリラックスした空気の中、私たちは、また他愛もない話に夢中になった。
その夜は、明日は休みだという解放感も手伝って、時間を忘れて話し込んだ。
須藤さんは、私のどんな拙い話も、馬鹿にしたり、遮ったりせず、ただ静かに聞いてくれた。
「3時30分でラストオーダーです」
店員さんの声で我に返ると、窓の外は、もう白み始めていた。
「……もう、こんな時間か。すまない、すっかり話し込んでしまった」
私が時計を見て小さく声を上げたのに気づき、須藤さんが申し訳なさそうに言った。
「いいえ、大丈夫です!明日、お休みなので」
「そうだったのかい。……もし、君さえ良ければ、もう少し、いいかな?正直に言うと、私自身、こんなに楽しく誰かと会話をするのは、本当に久しぶりなんだ」
(……楽しい。私の話を、こんなに楽しそうに聞いてくれる人、初めてかもしれない……)
別れ際、どちらからともなく、携帯電話の番号を交換した。
帰りの車の中、また、思い出し笑いをしてしまった。
会話の内容なんて、ほとんど覚えていない。
ただ、温かく、満たされた時間だけが、胸に残っていた。
(世間で嫌われている”おじさん”の中にも、須藤さんみたいな人もいるんだな……)
ダンディで紳士的なのに、会話が楽しくて、時間を忘れさせてくれる人。
年齢の離れた男性への偏見は、私の中から、もう確実に消え去っていた。
私は、自分でも驚くほど、須藤さんに親近感を覚えていた 。
それから、どれくらい経っただろうか。
ファミレスで会うだけの関係は、私にとって、日常に欠かせないものになっていた。
彼には私以外にも、こうして会っている女性がいると、彼は隠すことなく話していた。
それでも、私は彼に会いたかった。
彼に会えるだけで、仕事のストレスが浄化されていく気がした。
ある日の会話で、私が冗談めかして「大人の話」を振ってみると、須藤さんは嫌な顔一つせず、彼の経験や、女性というものへの独特な認識を、淡々と、しかし真摯に話してくれた。
(あぁ……この人なら、きっと、分かってくれる……)
(須藤さんなら、私の、心の奥底に封じ込めた、あの暗くて醜い秘密も……笑わずに、聞いてくれるかも……)
いつからか、彼に会うたび、心の奥底で疼く「あの感情」が、顔を出しそうになるのを、必死で抑えていた。
そして、出会って三ヶ月が経った、あの夜。
その日のことは、今でも鮮明に覚えている。
勇気を振り絞って、”あの話”をしたことを。
私が、私でなくなった、”あの日”のことを。
「……須藤さん。私……実は、悩んでいることがあって……」
彼の、静かな瞳が、私をまっすぐに見つめている。
「小学生の頃……同じ団地に住む、男の人に……その、酷いことを……されて……」
声が、震える。
性的ないたずらを受けたこと 。
そのせいで、私の性は歪んでしまったこと 。
(……引かれた、かな。気持ち悪いって、思われたかな……)
涙が、視界を滲ませる。
「……うん」
「普通じゃ、ないんです……普通に恋愛がしたいのに、25歳にもなって、男性経験も、なくて……!」
須藤さんは、何も言わなかった。
ただ、「うん、うん、そうか」「それは……辛かったね」と、私の告白を、一つ一つ丁寧に拾い上げ、一言も聞き漏らさないように、受け止めてくれた。
私が過去を思い出して泣き崩れると、彼は、まるで自分のことのように、辛そうな表情で、黙ってティッシュを差し出してくれた。
(……怒ってない。軽蔑してない……。私の話を、聞いてくれてる……)
あの日、私は、誰にも言えなかった全ての悩みを、彼にぶちまけた。
気づけば、また、オーダーストップの時間だった。
涙はすっかり乾き、私たちは、いつものように笑顔で笑い話をしていた。
(この気持ち……あぁ、私、この人が好きなんだ……)
私のこの歪んだ悩みを受け止めてくれたのは、世界でこの人だけだ。
(この人のためなら……私、何でも……)
何か、重い枷が外れたような、不思議な解放感。
(他にも女性がいたって、もう構わない。自分の気持ちに、正直になろう……)
それは、確信だった。
帰りの車の中、私の心は、あの夜景よりも明るく、輝いていた。
それが、どれほど深く、暗い道へと続いているかも知らずに。
コメントを残す