第二章【ご主人様と慕う男性との出会い】中山優子(25歳)からの告白

ご主人様を乗せた車が、冷たいアスファルトの上を滑り、角を曲がって見えなくなるまで、私はコートの襟を握りしめたまま、その場に立ち尽くしていた。

夜明け前の空気は、刃物のように肌を刺す。

コートの下は、ストッキングもパンティーも失った、あまりにも無防備な素肌。

さっきまで彼の道具で汚され、恥ずかしい音を立てていた身体の奥が、まだ彼の残した熱でじんじんと疼いている。

(辛かった……恥ずかしかった……寒かった……)

それなのに、心の奥底には、奇妙なほどの充足感と、彼が去ってしまったことへの、胸を掻きむしるような寂しさだけが残っている。

あれほどの屈辱と苦痛を与えられ、糞尿と精液にまみれたというのに。

今、私の胸を満たしているのは、絶望や後悔ではなかった。

なぜ、この胸は「至上の幸福」などと感じてしまうのか。

彼に「最高だ」と褒められたことへの甘い陶酔と、もっとずっと一緒にいたかったという、子供のような切ない渇望だけだ。

(……私は、いつからこんな風になってしまったんだろう)

冷え切った団地の部屋に戻り、鍵をかける。

シャワーを浴びる気力もなく、コートを脱ぎ捨ててベッドに倒れ込むと、疲労困憊のはずなのに、頭だけが妙に冴えていた。

(どうして、あんな酷いことをされても、嫌いになれないんだろう……)

(どうして、あの人の前でだけ、私はこんなにも……)

目を閉じると、今日の出来事よりも鮮明に、あの日の光景が蘇ってくる。

今、私が「ご主人様」と慕う、あの人のことだ。

彼がまだ、私の「ご主人様」ではなかった頃。

(……あの人も、最初から、こんな人じゃなかった……)

脳裏をよぎるのは、今日の冷酷な支配者とは似ても似つかぬ、穏やかな笑顔。

私がまだ、こんな風に歪んだ快感も、身体の奥で疼くこの寂しさも知らなかった頃。

彼はただ、ファミレスで出会った、優しくて、少し寂しそうな目をした、年上の紳士だった。

私がただの「中山優子」で、彼が「須藤さん」という、年の離れた紳士だった頃。

そう、すべては、あの夜から始まったのだ。

私が、孤独な25歳の女でしかなかった、あの夜から……


ご主人様と慕う、その男性と出会ったのは、春先のことだった。

夜8時30分。

仕事帰りに、職場近くのファミリーレストランで一人、夕食をとるのが私、中山優子の日課だった。

自動車教習所の事務員という仕事は、好きで選んだ。

けれど、就職したばかりの職場で、まだ私は馴染めずにいた。

だから、夕食の相手はいつも、窓ガラスに映る、疲れ切った自分の顔だけ。

あの日も、そうだった。

注文を済ませ、ドリンクバーへ向かうと、隣でコーヒーを淹れている男性がいた。

その時だった。

「一人で食べに来ているのかい?」

不意に、穏やかな声がかけられた。

(え……?私?)

視線を上げると、歳の頃は父親ほどにも見える、ダンディな男性が立っていた。

驚きのあまり、私は咄嗟に「ええ、あっ、はい」と、蚊の鳴くような返事をするのが精一杯だった。

(……びっくりした。人違いかな……)

私はそそくさとその場を離れ、自分の席へと逃げ帰った。

窓の外を流れる車のテールランプをぼんやりと眺め、食事を終える。

再びドリンクバーへ向かうと、また、あの男性がいた。

彼は、私に気づくと、少し困ったように笑った。

「驚かせてしまったようだね、ごめん、ごめん。……実は、私も一人なんだ。話し相手がいないと、食事もなんだかつまらなくてね。迷惑でなければ、一緒に……良いかな?」

(何を言っているんだろう……?どうしよう。知らない人だし、こんな年上の人……)

だが、彼の物腰はあまりに柔らかく、その瞳には、下心とは違う、どこか寂しげな色が浮かんでいるように見えた。

いつもの私なら、確実に断っていたはずだ。

人見知りで、見知らぬ人、特に男性と話すのは苦手だった。

なのに、その時。

「……じゃぁ、私が、そちらの席に移動しましょうか?」

なぜ、そんな言葉が出たのか。

自分でも分からない。

「いや、私が君の席へ移動するよ。そっちの方が、窓から外の景色が見えるしね」

彼はそう言うと、スマートな仕草で荷物とドリンクを運び、私のテーブルの対面に、当たり前のように腰を下ろした。

「須藤と言います。君は?」

「あ……中山、優子です」

「中山さんか。……この近くで働いているのかい?」

初めは、ぎこちない世間話だった。

「仕事は楽しい?」と聞かれ、教習所の話をすると、彼は「人を導く、良い仕事だ」と真剣な顔で頷いた。

彼が会社を経営していること 、この辺りには仕事で時々来ること。

私の他愛もない仕事の愚痴。

彼の声は、低く、落ち着いていて、聞いているだけで、ささくれだった心が鎮まっていくようだった。

気づけば、時計の針は午後11時を回っていた。

「おっと……もうこんな時間か。遅くまで引き留めてすまなかったね。明日も仕事なんだろう?そろそろ、お帰りなさい」

(……あ。もう、終わり……?なんだか、すごく、楽しかった……)

もっと話をしていたい。

その衝動を、翌日の仕事のことを考えて無理やり押し込める。

(あ……連絡先、聞くの忘れちゃった……)

でも、不思議と焦りはなかった。

(……あの人なら、また会えそうな気がする……)

車を運転しながら、ぼんやりと彼のことを反芻する。

数日後、その予感は的中した。

同じファミレス、同じ孤独な夕食。

いつもの席でオムライスを待っていると、背後から、あの声がした。

「中山さん……だよね?久しぶり。覚えているかな、須藤です。……ここ、座ってもいいかい?」

振り返ると、あの時の、優しい笑顔があった。

「あっ!は、はい!覚えてます!どうぞ……!」

(……嬉しい。また、会えた……!)

自分でも驚くほど、心が弾んでいた。

今日は、必ず電話番号を聞かなくっちゃ。

淡い期待が、胸の中で膨らんでいく。

前回よりもずっとリラックスした空気の中、私たちは、また他愛もない話に夢中になった。

その夜は、明日は休みだという解放感も手伝って、時間を忘れて話し込んだ。

須藤さんは、私のどんな拙い話も、馬鹿にしたり、遮ったりせず、ただ静かに聞いてくれた。

「3時30分でラストオーダーです」

店員さんの声で我に返ると、窓の外は、もう白み始めていた。

「……もう、こんな時間か。すまない、すっかり話し込んでしまった」

私が時計を見て小さく声を上げたのに気づき、須藤さんが申し訳なさそうに言った。

「いいえ、大丈夫です!明日、お休みなので」

「そうだったのかい。……もし、君さえ良ければ、もう少し、いいかな?正直に言うと、私自身、こんなに楽しく誰かと会話をするのは、本当に久しぶりなんだ」

(……楽しい。私の話を、こんなに楽しそうに聞いてくれる人、初めてかもしれない……)

別れ際、どちらからともなく、携帯電話の番号を交換した。

帰りの車の中、また、思い出し笑いをしてしまった。

会話の内容なんて、ほとんど覚えていない。

ただ、温かく、満たされた時間だけが、胸に残っていた。

(世間で嫌われている”おじさん”の中にも、須藤さんみたいな人もいるんだな……)

ダンディで紳士的なのに、会話が楽しくて、時間を忘れさせてくれる人。

年齢の離れた男性への偏見は、私の中から、もう確実に消え去っていた。

私は、自分でも驚くほど、須藤さんに親近感を覚えていた 。

それから、どれくらい経っただろうか。

ファミレスで会うだけの関係は、私にとって、日常に欠かせないものになっていた。

彼には私以外にも、こうして会っている女性がいると、彼は隠すことなく話していた。

それでも、私は彼に会いたかった。

彼に会えるだけで、仕事のストレスが浄化されていく気がした。

ある日の会話で、私が冗談めかして「大人の話」を振ってみると、須藤さんは嫌な顔一つせず、彼の経験や、女性というものへの独特な認識を、淡々と、しかし真摯に話してくれた。

(あぁ……この人なら、きっと、分かってくれる……)

(須藤さんなら、私の、心の奥底に封じ込めた、あの暗くて醜い秘密も……笑わずに、聞いてくれるかも……)

いつからか、彼に会うたび、心の奥底で疼く「あの感情」が、顔を出しそうになるのを、必死で抑えていた。

そして、出会って三ヶ月が経った、あの夜。

その日のことは、今でも鮮明に覚えている。

勇気を振り絞って、”あの話”をしたことを。

私が、私でなくなった、”あの日”のことを。

「……須藤さん。私……実は、悩んでいることがあって……」

彼の、静かな瞳が、私をまっすぐに見つめている。

「小学生の頃……同じ団地に住む、男の人に……その、酷いことを……されて……」

声が、震える。

性的ないたずらを受けたこと 。

そのせいで、私の性は歪んでしまったこと 。

(……引かれた、かな。気持ち悪いって、思われたかな……)

涙が、視界を滲ませる。

「……うん」

「普通じゃ、ないんです……普通に恋愛がしたいのに、25歳にもなって、男性経験も、なくて……!」

須藤さんは、何も言わなかった。

ただ、「うん、うん、そうか」「それは……辛かったね」と、私の告白を、一つ一つ丁寧に拾い上げ、一言も聞き漏らさないように、受け止めてくれた。

私が過去を思い出して泣き崩れると、彼は、まるで自分のことのように、辛そうな表情で、黙ってティッシュを差し出してくれた。

(……怒ってない。軽蔑してない……。私の話を、聞いてくれてる……)

あの日、私は、誰にも言えなかった全ての悩みを、彼にぶちまけた。

気づけば、また、オーダーストップの時間だった。

涙はすっかり乾き、私たちは、いつものように笑顔で笑い話をしていた。

(この気持ち……あぁ、私、この人が好きなんだ……)

私のこの歪んだ悩みを受け止めてくれたのは、世界でこの人だけだ。

(この人のためなら……私、何でも……)

何か、重い枷が外れたような、不思議な解放感。

(他にも女性がいたって、もう構わない。自分の気持ちに、正直になろう……)

それは、確信だった。

帰りの車の中、私の心は、あの夜景よりも明るく、輝いていた。

それが、どれほど深く、暗い道へと続いているかも知らずに。

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